ちょっと異界に物見遊山

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 幼い頃、私にとって歩道橋はファンタジーだった。

 何故って、幼い頃住んでいた田舎には歩道橋などなかったのだ。車の通りの少なすぎる細い畦道か、同じく車の通りは少ないのにやけにだだっ広い舗装路しかなかった。後者では暴走族が暴走しまくっていたわけだが、それも子どもが通る昼間のことではなかったから、横断歩道があれば歩道橋などいらなかった。むしろ耕運機以外の車の通りが少なすぎて、横断歩道さえいらなかった。

 つまり私が歩道橋を見るのは、都会を舞台にしたアニメかドラマ、どちらにせよテレビの中でのことだった。非現実的という意味で、私にとって歩道橋はファンタジーだったのだ。大学生になってようやく、郷里を離れ、大学寮に入ったことで居住区に歩道橋が出現した。いや、元々あったところに私が移動しただけなので、出現したというのは不正確だろう。しかし私の心情的には”出現した”と言い表すのが一番しっくりするものだった。

 初めてファンタジーの世界に踏み込んだ日のことを、今では忘れてしまった。現実世界に出現したファンタジーは、経験すればただの現実に落とし込まれてしまって当然なのに、相変わらず私にとって歩道橋はファンタジーなのだった。それとも、異空間というべきか。

 四年間の大学生活でいい加減歩道橋にも慣れただろう、と思うだろうか。いや、確かに生活圏に歩道橋はいくつもあった。けれど私はそれをほとんど使わなかったのだ。何故なら大学のある学園都市には自転車道というものが整備されていて、私は自転車で都市を横断していた。そのため、わざわざ自転車を押して上がらなければならない歩道橋は、見かけはするものの、そこに登る理由がなかったのだ。

 例えて言うなら銭湯の富士山のようなものだ。そこに山があるから登るはずなのに、あるはずの山が世界を飛び越えないと行けない場所なら、そこまでして登る必要があるだろうか。銭湯に行くついでに山を登ることはない――逆ならあるかもしれないが――し、道を渡るだけなら他にも方法はある。

 だから、なにも「幼い頃」と限定して言わず、大学を卒業して就職先の近くに引っ越し云年経った今も、歩道橋は私にとってファンタジーなのだ。特に、普段使いもしない駅前の、自分とは関係のないイベントで盛り上がる日の歩道橋に登れば、余計に自分とは遠い世界に来たような気分になる。そういう華やぎに満ちた街を歩く番達が、これまた華やかな笑顔に満ち満ちていて、それをひとり見下ろす自分は吹き上げる強い春風に隔離されているような、この心情。

「思えば遠くに……」
「年齢的にか」

 若さを誇るような歳ではないわけだから、否定はしないとも。しかし、現実に打ちのめされている時くらい、ひとりで浸らせてくれとは言いたい。せっかく、人ごみを上から見下ろせる異世界へ昇ってきたというのに。いや、だからこその邂逅なのか。

「存在的にですかね」
「ああ、まあ、人には程遠いな」

 しれっと返すその声は、耳慣れたとは口が裂けても言いたくないが、瞬間的に「あ、これ聞いたことある」と脳内データベースが自動検索されるくらいには知っているものになってしまった。この異世界において未知との遭遇とは言い切れず、これまでの経験値からすると、非日常よりも日常においての遭遇率の方が高い相手。胡乱な視線を向けた先には、歩道橋の階段を登りきった男が一人。薄手の紺色のロングコートが春風にはためいている。

「悪魔ですからね」
「悪魔だからな」

 紺色のロングコートの前は開けられていて、ピンクと白のストライプのワイシャツが覗く。サラリーマンではあり得ない格好をして、客を探すホストみたいな顔をしている男は、そろそろ歩けば棒にあたる確率になってきた、レア度減少気味の悪魔だった。

「みじめな人生を嘆いて飛び降りるにしても、この程度の高さはお勧めしない。とどめをさしてくれるかもしれない車もろくに走っていないしな。遠くに来たと言いたいなら、もっと高いところにしておけ」

 どうやら客は客でも、金を差し出してくれる相手ではなく、魂を差し出してくれる相手を探しているらしい。それならどちらも提供できない私と、おそらく低くない確率でエンカウントしている場合ではないのではないだろうか。もっと別の場所で、別の人とエンカウントしていればいい。”みじめな人生”と断定される私よりも「先輩、今日わたし定時で上がりたいので」と言って、定時に席から立ち上がり、夜用のメイクに変えてキラキラした光をまといながら仕事場を飛び出していった後輩女子社員のように、もっと”お高い”ところへ行って、そのホスト顔を有効活用すればよろしい。

「ああ、もっと……高級高層スカイレストランとか、確かに遠いですよね。懐的にも縁遠い」

 私はその後一時間ばかり残業したが、なに、たまの一日定時に上がりたいと言ったところで、それは十分保証されていい権利だと思う。定時に上がらなければならない理由も、ディナーを奢ってくれるアテがあるわけでもなし、とエレガントになりきれず、鬱々とした気分がだだ漏れてしまったのは果たして愛嬌の範囲なのか。腕を組んでこれから高級高層スカイレストランに向かいそうな男女が、笑い合いながら都合よく歩道橋の下を歩いていくものだから、対する自分の年齢と生活が頭の中を巡り、つい。言わんでいいことを言ってしまったと内心で舌打ちする。

「懐になってくれる男のいない女の僻みだな。リア充を羨むなら……」

 その言葉は聞き飽きた、主に私の心の中で。だから私は皆まで言わせず、その先を自ら言ってみせた。

「リア充になる努力をしたのか。答えはノーです。それなら僻むな妬むな羨むな。なるほど正しい!」

 ついでに答えと、その先の言葉までダイレクトに。潔く自分の矮小さを認めてみせたというのに、悪魔は「うわ、こいつ面倒臭い」という顔を隠さなかった。失礼な。僻んでも妬んでも羨んでも、それは一時のこと。今日という日、もしくはその前後くらいまでは番を見て面白くない気持ちになったりするけれど、年間のほぼ九割の日は、ひとりでいることを謳歌しているし、リア充からは適度に距離を置いて優しく見守れる女なのだぞ、私は。

「あのな……」

 一人イコール寂しい奴と思うのは、明らかな差別だと思う。一人をエンジョイする女はこの世に私だけってことはないはずなのだ。悪魔の目にありありと浮かんだ憐れみの色に、思わず私が拳を握った時、悪魔が登ってきた階段とは逆側の階段付近から、「待て」というような甲高い声が上がった。

「ちっ、また五月蝿いのが……」

 悪魔の舌打ちを無視して私が慌てて振り返ると、そこには。

「まさかの天使?」

 目に飛び込んできた姿にトゥンク、と漫画みたいに私の胸が高鳴った。テンションだだ下がりの一日の終わりに、まさかこんなサプライズが用意されていようとは。さすがは歩道橋という名の異世界だ。こういう驚きの出会いがあるなら、物見遊山的にふらふら仕事場から出てくるのではなく、もっと身なりを整えておくべきだった。とっさに風で乱れた髪を直した私に、悪魔が疑問符を投げかける。

「ん? よく分かったな」
「は?」

 私は疑問符のフック部分を握って投げ返した。何言ってやがるこの悪魔。よく分かったも何も、この天使を見間違えるほど私の目は曇っていない。それはまあ、歩道橋の下の番を見る目が清々しかったかと言えば、決してそうではないけれども。腐ってはいるけれど、曇ってはいないのだぞよく見てみろと言わんばかりに私が悪魔を睨みつけると、悪魔は首を傾げてそれから何かに気づいたように視線を斜め上に投げた。なんだその所謂遠い目は。

「……だから、奴が天使だとよく分かったな」

 奴、と言って悪魔は自分が登ってきたのとは反対方向の階段側を指差して言った。だから、と今度は私が舌打ちをして言い返す。

「白もふフサのサモエドが天使でなく何だと? この悪魔め」
「天使だ」
「ん?」

 なんだか会話が成立していない。悪魔が天使を天使だと言ったので、それくらい分かるわ、と悪魔を罵ったら、悪魔はもう一度天使だと主張した。天使を、天使だと。おや、何かがすれ違っている。気づいた私に、悪魔は心底呆れた様子で溜息をつき、駄目出しのようにもう一言説明を加えて言う。

「だから、俺が悪魔で、奴が天使だ。お前担当のな」

 あらまあビックリ。死神はわかる。いかにも死神という格好と冷気を放っていたから。けれど。あいつ、と悪魔が指し示す先には一人旅中の白いサモエドが、舌を出しながら円らな黒い瞳で私を見ていた。確かに首輪はしていないけれど、頭の後ろに天使の輪っかが見えるようにも思う。これってまさかの。

「羽の、生えてないエンジェル?」

 そりゃ笑っているような口元が特に天使のようにかわいいけれども、あの格好では天の神様のところまで飛べないのではないだろうか。

「白くはある」
「真っ白ですね」

 外犬にしては白すぎると言ってもいい。まるで汚れを知らない、というよりも寄せ付けない驚きの白さ。

「ホワイトデーなだけに」
「そこは天使なだけに、でいいのでは?」

 実際、比喩ではないらしいのだからして。しかし、もし光輝く彼(?)がネロを迎えに来たりしたら、パトラッシュの立場がなくなってしまう。と、私が既に天に上げられているはずのワンコに想いを馳せていた時、悪魔は悪魔で、別のことに想いを馳せていたらしい。

「豆大福のこと、まだ恨んでるんだろうが」

 白くて丸くて可愛いあいつのことを。しかしホワイトデーの一ヶ月前のことをここで持ち出すのは、痴話喧嘩みたいなのでやめて欲しい。天使の前でとか、本当に、やめて欲しい。私は思わず奥歯を噛み締めて、獣のように唸り声をあげそうになったけれど、側にピュアな存在が光を放っていることに気づいて顔じゅうの筋肉を上へと持ち上げ、ついでにこれまでにないくらいテンションも上げた。正直ドーピング剤が欲しいが、なんとかこの場だけでも乗り切らなければと両手を挙げる。

「恨みなんてありませんよ。あったとしても捨てます。ああ! 私はあなたを許します! だからどうぞ、この立体的四つ辻から魔界へお戻りを!」

 引きつった笑みには気づかなかったらしいサモエド天使が、加勢してくれているようなタイミングで、帰れ、と悪魔に向かって吠える。そうだ、悪魔が帰れば私がこのサモエド天使をお持ち帰りして−−ペット禁止だけど−−もふもふを堪能すべく、めくるめく一夜を過ごすのだ。

「立体的四つ辻って、歩道橋のことか」

 ワン。

「……あぁ? 俺が? 馬鹿な、この女は小癪な願い事をしたから、魂が取れないんだ。まあ、そういう意味ではお前の世話にもならんだろうが」

 ワフ。私はリア充の存在すら忘れる忘我の境地から、唾を飲み込んでなんとか帰還する。私を挟んで歩道橋の端と端。何か、おかしい。片方は明らかに吠えているだけなのに、会話が成立している。そういえば、死神の時も私にはわからない言葉で会話が成立していたなと思うけれど、死神の言葉は分からんでもいいと思っていたからスルーできた。でも自分担当の天使様の言葉が分からないのは。

「……ちょい」
「なんだ」
「天使は犬語を喋るもの?」
「は?」
「死神の時は放送禁止用語でしたが、天使は犬語?」

 大変不服ではあるけれど、人語で話の通じる相手が悪魔しかいないので、私は悪魔に尋ねた。すると悪魔は一瞬奇妙な、何とも言えない顔をしたけれど、すぐに合点がいったとばかりに一人頷いた。そして途端にニヤニヤと口の端をあげ、笑いながら答える。

「……天使の声はだな、聞く者にとって一番心地よい声に聞こえるもんなんだ」
「心地よい……。確かに、心地よくはある……」

 ワフワフと吠える声はちょうどいい高さで、あれでちょっと困ったようにクゥンとでも鳴いてくれれば涎ものだ。そしてそのためにはあの見た目とマッチしていることが必要で。だから天使はサモエドなの、か。

「って、ワンコ、いなくなっちゃった……」

 いや、この立体的四つ辻−−辻は異界と交わる場所であるからして−−が見せた、あれは一瞬の幻だったのか。そうであるなら幻がもたらした幸福感と一緒に、そろそろ歩道橋から降りて、番達の後ろをとぼとぼ歩きつつそろそろ家に帰って寝る時間だな、と私が思ったそのタイミングで、空気を読まない悪魔が真相を暴露。

「お前が飛び降りると思って駆けつけたらしいが、飛び降りそうにないし気分も上々みたいだから、他にもっと心配な担当のところに行くとさ」

 まずこの程度のリア充ネガキャンで飛び降りると心配されたことがショックでワンヒット。そして気分が上向いた理由はサモエド天使が現れたことによっていたのに、まったく気づいてもらえていなかったことでツーヒット。

「ああ……天使は担当が決まっているから、悪魔と違って暇じゃないんでしたね……」

 最後に、仕事上仕方がないとはいえ、担当制があからさまでスリーヒットコンボ。歩道橋の上から吐血していいだろうか。嘔吐ではないので、許されますよね神様。

「悪魔も暇じゃない。駆けつけられる悪魔が駆けつけているだけだ。せっかく鬱々とした気配を感じて駆けつけたのに、相手がお前では詐欺もいいところだ。救急車は必要な時にだけ呼ぶもんだぞ。おい、聞いてるのか」
「悪魔の言うことがわかって、天使の言葉が分からないとか……」

 そして毛深い天使は去り、残っているのは見目だけはいい、人の面を被った悪魔のみ。このダメージを、一体どうやって回復したらいいのだろう。

「……まあ、迎えに来るのが天使とは限らんし、迎えに来たら来たで、言葉など分からんでも付いていけばいいだけだろう」

 確かに、天使じゃなくて死神が迎えに来れば、放送禁止用語としか聞こえないわけだから己の生前の行いを攻めれられようとも、分かりはしない。というかもしかしたらいま、私は悪魔に慰められたのか。どうなのか、と思って悪魔の顔を伺うと、一ヶ月前に見せたようなしょっぱい顔をしていた。以前は私の堂々たるお一人様発言に対してだったけれど、今回は自分の発言に対しての反応らしい。だからせめて苦い顔をしろよ、と私はこの時も心の中で突っ込んだが、しょっぱい顔を見て回復した、とは言わないけれど気分は上向いたので、そろそろネガキャンは止めていつもの引きこもりに戻ろう。時間も時間だ。私は明日勤務があろうとなかろうと、通常夜九時以降はお家の外に出ない良い子なのだ。

「まあ……行いのせいでないことは確からしいので、前向きに犬語翻訳機でも待つとしましょう」
「ポジティブなんだか、ネガティブなんだかわからん奴だ」
「豆大福だって、白の中は黒ですよ」

 夜食、というより夜の甘味もいつもなら避けるのだけれど、食べ物の恨みはやはり捨てきれないので。食べられた愛らしい豆大福の代わりは、やはり豆大福で返していただくべきだろう。悪魔は器用に片方の眉を持ち上げた。

「三倍返ししてやってもいいが、ひとりで食うと太るぞ」

 私は片方だけという眉の動かし方が習得できていなかったので、両方の眉を上げた。食べた分のお返しならいいけれど、悪魔から余分にもらうのはリスクがありそうだ。

「コーヒーなら淹れてあげますけど?」

 品物としては等価交換で。世のリア充の皆様は、それに愛をどちらが多く盛るかで差をつければよろしい。私は悪魔と豆大福とコーヒーの夜食を摂って、歩道橋という異界で出会ったサモエド天使が走り去ったのか、それともどうにかして飛び去ったのかをじっくり聞き出してやりたいと思う。

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